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女性指圧整体師を探して

 私が、この著書に出会ったのは、まだ東洋医学に出会う前の、40歳になりたての頃でした。

 30代は関節リウマチの闘病生活のうちに過ごし、その頃はシングルマザーとして、自分よりまず息子を自立させるまでは…という気持ちが一番で、前職は経済的自立を最優先順位として、いろいろなしがらみもストレスも多い中、必死に働いていました。

 

 息子が高校生になった頃でしたでしょうか、少し子育ての終わりが見えてきて、息子が自立した後、自分はどうやって生きていこうかとぼんやりと考えることが多くなっていました。

 

 今の仕事は、やりがいはあるけれども、気力体力的に一生続けられる仕事ではない。

 もともと、やりたくて始めた仕事ではなく、降って湧いてきたような仕事だったので、私はそもそも何をしたかったんだろう…と、自分の人生の棚卸をするような気持ちで、日々過ごし、先の見えなさにうんざりするような、まだまだ若いという気持ちと、もう若くないという気持ちの中で揺れていました。

 

 私は学部時代は心理学を専攻し、卒業後はカウンセラーになるつもりで将来設計をしていましたが、料理旅館の跡継ぎだった前夫と結婚するに従い、家業を手伝うことになり、20年が経とうとしていた頃でした。

 

 もう一度臨床心理学を学ぶため、私が在学中にはなかった臨床心理士の資格を取得するため、大学院に進学したい。その気持ちが一番強く、心理系の資格や仕事を考えていました。

 

 ある日、いつものように心理系の書籍の棚に向かうと、平積みになったこの著書を見つけました。

 

 序文を読むとボスナック教授が、河合隼雄先生に招かれて京都にいらしたときに、交通事故の後遺症で悩んでおられた奥様が、遠藤師の施術で全快され、またボスナック教授も永年悩まされていた背部痛が消えてなくなったことが書かれています。

 

 ボスナック教授は、ユング派の精神分析家で、ユングに関する日本語の著書は全て読み漁っていた私にとって、その言葉は深く脳裏に刻まれました。

 

 「もしあなたが、魂と身体とが分離したものであるという、二元論的幻想を越えた世界を体験したかったら、人を癒す術を知っている、この若き師範に学ぶとよいでしょう。」

 

 「私が本書を深く信頼するのは、何よりもこれが、人間が本来的に持つ直観力と、最も原始的である手技を通して、東洋的叡知である「道(タオ)」に目覚める方法を指示しているからに他なりません。」

 

 それから折に触れ、私はこの著書を読み返してきました。とても懇切丁寧に実技についても写真入りで解説されていて、指圧の解説本としては画期的ですし、そもそも鍼灸と違って、指圧についての著書自体が少ないですから、遠藤師の高著は、その後何冊も出版されているものを含めて何度も何度も読み返す価値のあるものです。

 

 でも、その頃の私には猫に小判というのが正しかったと思います。こんなすごい世界があるのか!と思ったものの、書いてあること自体を理解することには、到底及ばなかったと思います。

 

 今、このブログを書くために改めて読み返してみた時、ここが私の東洋医学の、指圧の出発点だったとしみじみ思います。目指した臨床心理学は、深くこの世界に通じていたのだと今ならわかります。

 

 私は身体だけでもない、心だけでもない、魂だけでもない、その全部が繋がっていてひとつという世界に惹かれています。指圧はその窓口に過ぎません。

 

 テクニックだけ優れている指圧というものがもしあれば、それは私の目指すものではありません。

 

 共感するこころ、魂が共鳴する氣、そういったものが伴わない指圧は私が目指すものではありません。

 

 遠藤師は僧侶でもあり、魂を磨くという修行を続けられているからこそ、これが書けたし、タオ療法という療法を確立できたのだと思います。

 

 遠藤師の京都サンガセンターは、私が以前住んでいた場所のすぐ近くにあり、タオ療法をいつでもうけることができたし、ワークショップに参加する機会も何度もあったはずなのに、なぜか、東洋医学の専門学校に入学してからもご縁がなく、思い立って施療を受けたのは、つい先日でした。

 

 遠藤師にはお会いできませんでしたが、女性の臨床家の方に施術を受けました。たぶん按摩マッサージ指圧師ではいらっしゃらないと思うので、国家資格者の治療院の枠組みではなく、はめるとすれば、民間資格者の整体院というような枠であると思うのですが、私が今まで治療を受けたどの治療院よりも治療的でした。

 

 技術はもちろん安定感があり、素晴らしかったですが、なによりも施術してくださった方の姿勢や佇まいが清らかで温かく柔らかい。施術室に流れる氣が澄んで居心地がよく、綺麗でした。

 

 サンガとは仏法による僧の修行場という意味ですが、遠藤師は僧侶であられるので、自然と念仏や指圧を通じての修行場という発想で命名されたのでしょう。

 

 指圧を精神技術(イメージテクニック)として、または物理的な技術として学ぶことは、正しい理解を妨げるということは、繰り返し書かれていることですが、指圧の臨床において、患者の生命が治療を必要としているツボをただひたすらに指圧していくという姿勢が大切であることが強調され、禅の「只管打坐」、悟りすら求めずにただひたすらに座ること、念仏門の「愚鈍念仏」というただひたすらに仏を念じることで三昧発得することのように、ただひたすらに患者さんの生命に共感していくことが大切と説かれます。

 

サンガは、患者さんへの治療の場であるとともに、自分自身の修行の場でありつつけなければならないという決意だったと思います。

 

~「ツボを手指で圧す」という、外見上は全く同一の行為が、「相手を理解しよう」という共感的な思いでなされる場合と、「私が圧してやろう」という我の強い思いでなされる場合とでは、全く正反対の効果を与える~

 

~共感的な指圧に対しては、生体が気を解放されるので、治療的にプラスの効果を生じるが、押しの強い(我の強い)指圧に対しては、生体は防衛的になるので治療的にマイナスの効果がもたらされる。~

 

~指圧に限らず、誰しも自分の「我」ばかり押し付けてくる人間に対しては、心を閉ざしたり抵抗したり敬遠的な態度をとる。しかし、自分の話にひたすらに耳を傾け、共感的な態度をとってくれる人には心を開いてくれる。~

 

~指圧の経絡治療を行うに当たっては、心理療法と指圧の共通点をよく理解しておく必要がある。

それは、ツボ(の奥にある邪気)が治療点であると同時に、患者の心身の歪みをつくるもとになっており、同時に患者の潜在意識とも深く結びついているからである。~

 

 臨床に立つようになって、痛感するようになることは、すべてこの中に書いてあります。

 

 患者さんに喜んでいただきたい一心で、臨床の場に立ち続けていますが、思った結果が得られないことがあります。その時には、「私が治す」という力みや、「同じ症状だから、これが効くはず」というような思いこみ、患者さんをよくしてあげたい、思いこみを変えてあげたい・・・というような我欲があるのでしょう。

 

 「ただひたすらに圧す」ことが、どれだけ難しいことなのか。一人ではとても辿り着けそうにない。

 

 そのためにの私自身のサンガが欲しいなぁ…と、そのためには、仲間が必要だと今強く思っています。

 

 私の原点となったこの著書に立ち還りながら、これからいかに指圧を学ぶか、伝えるかを考え続けたいと思います。